幸せとは。

幸せな生活を綴る

修養的生き方〜私が心の中に神を必要とする理由〜

人間は有史以来、この世界を分析し、知識を蓄積し、文明を築きあげてきた。

医学の発展で寿命は伸びたし、都市の発展でより安価に住みやすい環境を手に入れた。蛇口をひねれば水が湧き、ガスをつければお湯出るし、料理もできる。インターネットのおかげで、すぐに誰とでもコミュニケーションができるようになったし、読みたい本もワンクリックですぐ届く。

こんな便利な暮らしはない!!

しかし一方で、どれだけ考えても分からないこともある。

「なぜ、人間は他の生物と同じように、心臓を持ち、肺を持ち、そして血液が流れることによって動くようにできているのか?」

「なぜ、生物は他の生物を食べることによって体を維持するようにできているのか?」

「なぜ、この世界は、昼は太陽が昇り、夜は月が照らすようにできているのか?」

 

これらのことは、全て科学がいつか解き明かしてくれるに違いない。

そう考えて、こんな素朴な疑問も忘れて科学に頼ってしまうのが常であるが、それでいいのだろうか。

現代の多くの人は、「科学的、論理的」と言いながら、自分の都合のいい時にだけ、科学的説明を持ち出し、怠惰や邪な行為を行う。或いは精神的に行う。

幸せをもたらしてくれると錯覚しながら、快楽を求め、同じことを繰り返す。

果たしてそれで幸せだろうか。

 

私は、現代こそ宗教が必要な時代だと思う。

近代以前は、何か理不尽なことがあれば全て神が根拠にあったし、人々はいやがなんでもそれを受け入れなければならなかった。しかし、現代は科学的に全ての現象を説明してくれる時代だ。さらに信仰の自由も認められている。

だから、必要な部分は科学に依拠しながらも、自分の好きなところだけ、宗教的になれば、より幸せに近づけるはずだ。

例えば、人間は自由意志のおかげで、「生きている」と思っている。しかし、そのせいで、有意義な1日を過ごせなかった場合、ひどく後悔する。

ところが、私は「神に生かされている」と考えるようになればどうだろうか。朝起きるとき、「ああ、今日も起きれた。神様、ありがとう」と、感謝してその日を過ごすことができるではないか。

 

このような敬虔な生き方をすれば、誰に対しても優しく、幸福でいられる。神が常に心にいるのだから、神に背くような行為はできない。つまり、神という自分の良心/理性に反する行いはできなくなる。

これこそ、私が現代において神を必要とする理由である。