幸せとは。

幸せな生活を綴る

稼げば稼ぐほど、不幸になる。『カラマーゾフの兄弟』より

高い地位に就くこと、多くの富を持つこと。これらは、この社会では良いこととして奨励され、多くの人がこれを求める。そしてこれを得た者は、羨望の眼差しで大衆から見られる。

 

富を得た後で、それを必要としている者に提供するような、慈善活動に身を投じることができれば、その人は幸せであろう。しかし、富を得て他人に施しを与える人は、ごくわずかである。

 

多くの人々は、いつか自分が富を得て、豪勢な生活をすることを夢見ている。しかし、富を得ることに本当の幸せはあるのだろうか。

 

この問題を考える上で、参考になる本がある。ロシア文学ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だ。

この第6篇「ロシアの修道僧」はゾシマ長老の生涯を語る部分であるが、その中に「不思議な客」と題する一節がある。若き日のゾシマのところに50歳前後の、謎のような紳士が訪ねてくるのであるが、この一節が強烈に私の脳裏に焼き付いている。いま、小沼文彦氏の訳によって、その部分を引用してみよう。

 

「・・・ですから世界を新しく改造するには、人間自身が心理的に別の道へ方向を変える必要があります。人間が実際にあらゆる人に対して兄弟にならないうちは、四海同胞の時代はやってきません。人間というものはどんな科学の力をもってしても、またいかなる利益をもってしても、決して公平にその財産や権利を分け合えるものではないのです。一人一人にとっては常にそれが不十分なものであり、必ずブツブツ不平を言い、他人を羨み、互いに相手をやっつけるに決まっています。・・・(途中省略)・・・

なぜなら、今全ての人間はできるだけ自分の個を確立しようとつとめ、自分1人だけで充実した人生を楽しもうとしているからです。ところがそうした努力にも関わらず、その結果として得られるものは、充実した生の代わりに、完全な自殺行為ではありませんか。それというのも彼らは完全な自我の完成のかわりに、全くの孤立状態に陥っているからです。これはなぜかといえば、現代の人間は全て個々の単位に別れてしまい、誰もがそれぞれの穴に閉じこもり、誰もが互いに空いてから遠ざかるようにして、姿を隠し、自分の持ち物を隠しあっているからです。そしてその結果は自分は他人から顔を背け、また他人にも自分から顔を背けるようにしてしまっているのです。1人でごっそりと富を蓄積し、自分は今ではこんなに強くなった、こんなに保証された生活を送っているなどと考えていますが、富を蓄積すればするほど、自分がますます自殺的無力に足をとらわれて動けにくくなることに、愚かにも気づかないからねぇ。それというのも、自分ひとりだけの力をたのむことに慣れてしまって、一つの単位として全体から孤立し、他人の助力も、人間も人類も信じないように自分の心をならして、ただひたすらに、自分の金や、自分が手に入れたい権利を失いはしないかとビクビクしているからですよ・・・」。 

 

さて、皆さんはどう感じただろうか。

確かに、例えば、会社で給料をもらっても、「誰がいくらもらった」なんてことは、人前では話すようなことではない。

スーパーでお目当の商品を、目の前で他人の手に渡るのを見れば、怒りで頭が一杯になる。皆、他人を別人だと思い込み信じていない(或いは、話しかけると面倒なことに巻き込まれる)からどんどん孤立化してゆく。

これこそ、「自分の1人だけ充実した人生を楽しもうとし、自分の持ち物を隠しあい、失うことを恐れビクビクする生き方」であろう。

 

 どのように生きたら、幸せになれるのかね。

 

参考:

1965 左古純一郎『希望の人生論』p145