楽しく生きるコツ〜歳をとってみないと気づかない苦しみ〜
「歳をとってみないと気づかない苦しみ」。
このタイトルを見て、皆さんは何を考えるだろうか。
何かの病?老いぼれの人生論?
いや、そうではない。
私が伝えたいのは、今から対策できる「残りの人生を楽しむための心構え」である。
皆さんは老人を見て、こう思ったことが一度はあるだろう。
「なぜ老人は短気なのか、なぜ食べること以外に(他にもあるとは思うが)楽しみがないのか」。
これらは全て、若い頃から蓄積してきた人格に大きな原因がある。
さて、皆さんは若い頃といえば、毎日どんなことに幸せを感じていただろうか。
サラリーマンであれば、「仕事をこなすこと」や「同僚とワイワイ飲みあうこと」。主婦であれば、「ママ友とランチをすること」「子供の顔を見ること」など、細やかであるが、満ち足りた気持ちにしてくれることを挙げるであろう。
私も同じように、美味しいものを食べるのが好きだから、イタリアンレストランに行ったり、インド料理屋に足繁く通ったりする。
しかし、こういった「幸せ」は、つかの間のように過ぎ去る感覚だ。口に運んだものの味は時と共にすぐに消え去るため、何度も舌に入れて味わう必要がある。また、同僚とワイワイするのも、毎日やっていたら気が滅入ってしまう。
全て、つかの間の「幸せ」であり、どんな感覚も永久には続かない。
ところが、人間は歳をとると、体が弱くなるものだから、今まで楽しめていたことが楽しめなくなる。ランニングを趣味にしていた人は、歳を取って、スクワットさえままならなくなってしまうし、音楽を趣味にしていた人は、耳が遠くなって、会話を聞き取ることも煩わしくなってしまう。
賢明な人は、この身体の変化と共に、趣味を変え、別の楽しみを作り出す。昔よりも更なる落ち着きが現れ、心の患いにならない過ごし方をする。
ただ、多くの人は、そうではない。若い頃に楽しんでいた趣味や仕事を懐かしんだり、しまいには「なぜこうなってしまったんだ!」と憤る。
それゆえに、若者から「老人は短気だ」と言われるのだ。
ではこの問題の原因は何か。それはひとえに、その時々に味わっている「幸せ」に執着しているからだ。もっと砕いていえば、つかの間にしか過ぎない感覚を、永続するものと勘違いしているのである。
しかし、どのようにすれば執着せずに幸せの感覚を楽しめようか?執着しないように、おそるおそる楽しめば良いのだろうか?
人間の身体は本当に困ったもので、頭の中で理解していても、身体が理解していなければ行動することはできない。ボールの蹴り方を座学で理解しても、いざ蹴ってみると、とんでもない方向にボールが飛んでいくのと同じである。
つまり、「幸せに感覚は束の間のもの」ということを、体で理解する必要があるのだ。
ではどのようにして体で理解するのか?
瞑想
である。
古代インドから古く伝わる瞑想法にヴィパッサナー瞑想という瞑想法がある。今日の座禅のようなものであるが、これが効果てきめんである。
この瞑想を行うと、身体の感覚(ひいては世の中全ての物質)が全て移り変わるもの、という実感を得られるようになる。例えば、1時間座り続けると足が針を刺されるかのように鋭く痛みがするのであるが、ある時「フワっ」と感覚が溶解する時がやってくる。
この時、体が心の底から「ああ、感覚は移り変わるのだな」と納得して知恵を得るのである。
一度この体験をすれば、もう悩みごとなど消え去ってしまう。
人生は異なる感覚の連続であるため、どんな感覚にも執着せず、今この瞬間を楽しめるようになるのだ。
さて、長くなってしまったが、ヴィパッサナー瞑想に興味ある人は、日本に2箇所(京都と千葉)行うことのできる場所があるので、おすすめする。
京都
https://www.bhanu.dhamma.org/ja/
千葉
https://www.adicca.dhamma.org/ja/
それでは!